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Re: ミー・イズム

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月24日(土)14時05分19秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.8740[元記事へ]

いちのへさん

> 安全も日米安保で『して頂いている=こちら安全保障になっております』てカンジの民族だから
> これでイイのカ?というかんじもしますけどね。

相変わらず上手いよなあ。

語彙に乏しく、修辞も逆説も諧謔もな~んも使えないアメブロ登録者に拝ませてやりたいですよ。

> いづれ、死を前にして感じる『それはホントだ』てのは
>
> 『人間には愛する対象が必要だ』ということですね。これに尽きる。
>
> そして、
>
> 『人間は生命を持つ対象しか深く愛せない』
>
> ということ。生命の無い無機質を深く愛することは不能。

算盤ずくでしか人は人を愛せないという意味なのかどうかはさて置くとして、麻央さんの死にコメントを寄せる者の多くの愛する者とは結局は「おのれ」という実体なのでしょう。

「ありがとう麻央ちゃん、あなたの分まで長生きします」などという者は蹴飛ばしてやりたいね。
 
 

Re: ミー・イズム

 投稿者:いちのへ  投稿日:2017年 6月24日(土)11時59分8秒 KD014101145203.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  桜坂 秀翠さん

> 「お陰で勇気を貰いました」

↑ 以前から感じるのは、え?勇気って『貰う』ものなの?という違和感。

 『こちら、シーフードドリアになります』に感じる違和感と似ている。

安全も日米安保で『して頂いている=こちら安全保障になっております』てカンジの民族だから
これでイイのカ?というかんじもしますけどね。

いづれ、死を前にして感じる『それはホントだ』てのは

『人間には愛する対象が必要だ』ということですね。これに尽きる。

そして、

『人間は生命を持つ対象しか深く愛せない』

ということ。生命の無い無機質を深く愛することは不能。
 

ミー・イズム

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月24日(土)08時12分10秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  むろん、260万ものブログ読者を獲得できるというのも有名人の特権なのだろうし、人知れずひっそりと死んでいく圧倒的多数の普通の人々の死を軽んじる訳ではない。

おそらくは小林さんは有名人の特権を行使し「生命以上の価値」を読者、特に同じ病気を抱える女性たちに暗示したのではないか。

しかし、利己でなく利他を自らの闘病生活を通じて演じて見せた小林さんの意図は果たして上手く読者に伝わったのだろうか。

「麻央さんありがとう、お陰で勇気を貰いました」「私も麻央さんのように前向きに生きていきます」といったようなコメントが多いが、小林麻央というひとりの人間の死を前に、本来なら「客体」であるはずのおのれがいつの間にか「主体」となってしまう「ミー・イズム」には少なからぬ違和感を覚える。

むろん、勇気を貰うのも元気を貰うのも結構だろうが、今は小林麻央さんの死を悼む以外のおのれの心情を吐露するのは差し当たり控えるべきではないか。
 

Re: ごめん!

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月24日(土)07時15分4秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  > No.8735[元記事へ]

いちのへさん

> いま、引っ越しでドタバタしてて書き込みできません、ちょっと待ってネ。

おお、ここを忘れずに居てくれましたか。

昨日、小林麻央さんが「愛してる」の言葉を夫の市川海老蔵氏に残し逝ってしまいましたが(私は彼女のブログの熱心な読者でした)、これは少なくとも近年にあってのもっとも美しい人の死といえるでしょう。

私見ですが、闘病中、日々の生き方暮らし方において保守的な態度を貫き通した彼女は戦後の日本にあってほぼ絶滅した女性保守主義者だと思いますね。


落ち着いたらまたいちのへ流抱腹絶倒のコメントを一発頼みます。
 

蛇と燕

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月23日(金)21時28分51秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  写真は巣立ち直前のものだが、まだ孵化して間もない頃、拙宅の軒下のツバメの雛を狙っておよそ体長1.5メートルほどの大きな青大将(写真がないのが残念だが)が玄関のサッシに巻き付いていた。

知らずにドアを開けたら目の前にぬらぬらした太い胴がぶら下がっていたので、急いでドアを閉め、動けないようにしておいて二階から木刀を持ってくる。

ドアの隙間に差し込んだ木刀で掃うと2メートルほど飛んで庭に落ちた。

無用な殺生もしたくないので金の木炭挟みで頭を掴み、生かしたままどこかへ捨ててこようとしたのだが、存外、力が強くどうもうまくいかない。

窮鼠猫を噛むじゃないが奴さんも必死である。

逃げ場を失い真っ赤に開けた口を突き出し盛んに威嚇してくる。

殺意が芽生えた。

木刀の軽い突きをかわしたそいつがかつてない大きな動作で威嚇してきた正にそのとき、私の木刀がそいつの頭を打った。

即死である。

清めの塩を撒き、線香を立てたが何とも後味の悪い日であった。

また別なのが来たときのために、捕獲用の網でも用意しておくとしよう。
 

どうにでもなりやがれ

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月23日(金)15時35分59秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  私の家の近所には、戦国時代の武将であり歌人であり江戸城を築城したことで全国的にも名の通った太田道灌公の墓(首塚)や、日枝神社系列の古社があり、境内には楠や樅の大木や大イチョウが枝葉を広げ、夏ともなれば強い日差しを遮ってくれ、秋ともなれば美しい紅葉で私たち住民の目を楽しませてくれていた。

ところが最近、その大木たちが次々に切り倒されたり、太い枝が切り落とされたりしている。

道灌公の墓の樅ノ木は根元から切り倒され、切り株だけが実体の存在した証となって残り、見事な枝ぶりだった神社の大楠の太い枝はすべて切られ、かろうじて幹だけが残され、まるで頭の「飾り羽根」を全部むしり取られた孔雀のような無残な姿になり果ててしまった。

樹木に関しては全く門外漢の私は、樹齢を重ねた大木はそうでもしなければ自重に耐えられず、いずれ枯死するのかも知れないなと勝手にそう思っていたのだが、どうもそうではないらしい。

自治会長のS氏に聞くと、何でも付近の住民らから、大木の生い茂った葉のせいで日当たりが悪くなった。秋には落ち葉掃除が大変だ。といったクレームが相次ぎ、止む無くそうする他なかったそうだ。

銀杏の木はともかく、はて、楠や樅の木は落葉樹だったかしらんと疑問に思うのだが、それはともかくとして、霊験あらたかな神社や有名武将の眠る墓の古木を、たかだか数十年を生きてるだけの分際の人間が、いとも簡単に切り倒したりしていいわけがない。

比較的近年になっての新しい権利として「日照権」なるものが出てきてはいるが、そうした新たな権利思想を振りかざす者たちよりも古木たちの方がその土地の古い住人であり、日照不良や落ち葉が嫌なら最初からそこに家など建てなければ良いではないか。

畢竟、こうした神をも畏れぬ唯物主義者が私の住むような田舎町にまで湧き出てきた背景には、近代主義という西洋的文脈から出てきた人間中心主義、あるいは、理性中心主義といった進歩思想があることはもはや疑いようもなく、こうした小さなことに始まり、国家百年の計に至るまでが、たかだか今を生きるに過ぎない人間の裸の理性に拠って判断されそして決定され、古き良き慣習の体系、そこに内蔵されているであろう伝統の破壊へと連関していくのだろう。

どうやらこれがこの国のデモクラシーとやらの正体らしい。

まあ、私はとうに諦めてるからどうでもいいのだが・・・
 

ごめん!

 投稿者:いちのへ  投稿日:2017年 6月23日(金)11時38分1秒 KD014101145203.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  いま、引っ越しでドタバタしてて書き込みできません、ちょっと待ってネ。  

「伝統」この物悲しきなるもの

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 6月 6日(火)10時23分43秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  仄聞するに、明治製菓が昭和43年の発売以来、多くの庶民に親しまれてきた「カール」の東日本での販売を、本年8月生産分を以て終了する旨を先日発表したそうである。

今じゃどのコンビニでも選択に迷うほど豊富なスナック菓子が所狭しと置かれているが、私の子供時分のおやつと言えば、真っ赤に着色した酸イカとかベビーラーメン(乾燥ラーメンを油で揚げたスナック麺)とか麩菓子といった駄菓子の類ぐらいのものであり、そうした中、カレー味のサクサクした食感をもつカールは新鮮であり私も夢中で食べたものである。

そのカールの販売終了のニュースが流れてからというもの、中高年を中心とした客層がカールを買い求めようとスーパーやコンビニに押しかけているそうだ。

このように、失われゆくものへの愛着とか哀切の念というものは、我々が抱く感情のうちもっともファンダメンタルな感情であり、強かれ弱かれ誰にでもそうした感情は備わっているしまた経験もしている。

例えば、当たり前のようにあった銭湯がある日突然なくなった時や、長年通った床屋や一杯飲み屋が後継者が不在との理由で店を閉めたときなど、我々は何とも言いようのない寂寥感を覚えるだろう。

こういう誰しもが持つ自然な感情を、歴史感覚とか伝統の精神と私は呼んでみたいのだが、カールに行列をつくる人々にみるように、「伝統精神」とは、失われてゆくものを目の当たりとしたとき初めて立ち現れる精神の働きといっていいのだろうが、なんでそれが物質的なものに限定されるのか、といった議論がまったく乏しいのはいったいどうしたことだろうか。

その答えはすでに私の中にあるのだが、それもこれまでさんざん言及してきたことだし、いちいち言うのも面倒だからやめておこうか。
 

便所の貼り紙に観る戦後社会の宿痾

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 5月24日(水)21時59分10秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  私もいよいよジジイになったのか、近頃じゃどうにもつまらないことが気になって仕方がない。

今日、ドリンクバーに立ち寄った某ファミレスの男便所の小便器、つまり、金隠しだな、そこに「いつもキレイに使っていただきましてありがとうございます」と、手書きのイラスト付きの貼り紙がしてあった。

少し前なら、「一歩前へ!」だとか「トイレをキレイに!」などと書いてあったのだが、聞いたところでは「命令形の物言い」を嫌う近頃の若いモンには「いつもキレイに使って頂き云々」と書いた方が効果があるそうだ。

命令を忌避するというのは要するに階級を嫌うということなんだろうな。

男でも女でももっとも嫌いな上司は「上から目線」でモノを言う上司だそうで、戦後瀰漫した平等主義は、家庭においても会社においても地域社会においてもいかなる人間社会にあっても耐え難い腐臭を放っている。

「命令」というものが何かとんでもない悪と見られているんだな。

組織というのはなべて上からの命令系統によって統率なり秩序なりが保全されるのだという当たりきしゃりきが今の若者には通用しない。

これが便所の注意書きに留まるならまだいいが、これが軍隊だったらどうだろう。

上官は「いつも戦争に行って頂きましてありがとうございます」といわなきゃならなくなる。

会社の部長は「いつも会社に来て頂きまして誠にありがとうございます」と言わなきゃならなくなる。

「ノルマ達成するまで帰ってくるな」とでも言おうものなら直ちに「パワハラだ」となる。

まあ、もちろん私はブルジョアジー万歳じゃないが、プロレタリア万歳もここまでくると少しばかりアメリカ型のキョーソー資本主義を擁護してやりたくなるな。
 

むべないね

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年 5月12日(金)17時50分2秒 p6040-ipngn3801hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  ちょっと前の女性なら、「わたくし男性とお付き合いしたことなど一度もありませんの、オホホ」なんていって、男は男で(嘘つけこのアマ)と思いつつも、内心じゃ(もしかしたらホントかも)なんて淡い期待を抱いたもんだが、今じゃ男女ともにおのれの交際履歴を平気で吐露する時代となった。

つまり、「恥の欠落の時代」、それが戦後という時代である。

真っ当な感覚を有す男女なら、今のパートナーとしてる共同作業と同じことを前の異性ともやってるところを想像すれば、(コイツ、こんなことしてたんだろうな)とたまらん気持ちになるのだろうが、今の若いモンはどうやら気にならないらしい。

中には好きな行為の姿勢、つまり、好みの体位まで平気で口にする者も居るそうである。

バレバレの嘘でも百回つけば自分でも嘘か本当か分からなくなる。嘘と知りつつも信じたかのようなフリをし続ければ本当に思えてくる。こういう仮構のゲームというか、かのようにの哲学というか、大人の遊びができなくなったんだな。

「恥の欠落」は、男女間に留まらない。

幼児への破廉恥行為や認知症老人の虐待といった、もう、とっとと死んでしまいたくなるような情けない事件を起こした犯人にもソレは出ている。

普通なら、ジャンパーで顔を隠すなり、うつむくなりするのだが、あたかも売国の大物政治家でも暗殺したヒーローのごとく、カメラ目線で堂々とテレビに映るってのはいったいぜんたいどういう了見なんだい?

ひっきゃう、アメリカ属国でも恥と思わないのが国民の過半数を占めるのもむべないことだろうね。




 

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