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ホラね

 投稿者:いちのへ  投稿日:2017年11月24日(金)17時24分57秒 KD014101145203.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用
  桜坂さんの日頃の行いがイイから、人が集まってきたじゃんw!
素直な対応でいくように!

 
 

大阪市長 桑港との姉妹都市を解消

 投稿者:河内屋 改め 陽炎  投稿日:2017年11月24日(金)16時24分17秒 ntoska093114.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp
返信・引用
  桜坂さん
こんにちは

随分のご無沙汰でしたが、変わらず健筆のご様子 なによりです。

さて、お題の件

《引用開始》
大阪市の姉妹都市の米カリフォルニア州サンフランシスコ市が慰安婦像と碑文を公共物化したことについて、吉村洋文市長は24日、「寄贈受け入れをやめてほしいという姉妹都市としての要請を、みじんたりとも受け入れてもらえなかった。非常に残念だ」と述べ、改めて年内に関係を解消することを明言した。市役所で記者団の取材に答えた。

 吉村市長はエドウィン・M・リー市長との面会を要望していたが、23日に「慰安婦像に関する用件であれば議論や交渉、面会の余地はない」とする連絡がサンフランシスコ市からあったという。

 また、市議会による寄贈受け入れの決議可決から10日後の自動執行ではなく、リー市長が期限前の22日(現地時間)に承認の署名を行ったことについては、「結果としては同じだが、積極的に署名するということは、リー市長も世界に像と碑文を見聞したいという思いなんだと感じた」と述べ、「信頼関係は完全に破壊された」として解消を決断したとした。

 姉妹都市関係を継続した上で、対話や交渉の中で解決に向け努力すべきではという指摘に対しては、「抗議をしていても、姉妹都市を続けていれば信頼関係があるとみなされ、黙認と同じことになる」と強調。60年の歴史があるにもかかわらず、サンフランシスコ市が積極的に像や碑を受け入れたと指摘し、「関係を続けたからといって翻意できるとは思わない。解消するということのほうが、明確な意思表示になると思う」と述べた。
《引用終了》

産経新聞 2017.11.24.11:20 より


大阪市民ではありませんが、府民としても、日本国民としても、吉村市長の姿勢と判断は当然のことと支持します。

例によって朝日新聞その他がガタガタと御託を並べていますが、なあに気にすることなぞありません。

テメエの親父や祖父たちが婦女子を攫った挙句、片っ端から手籠めにしていたなんて出鱈目を吹かれてまで、姉妹都市なんて続ける必要はありませんよ。これを座視するなら、明日から座って小用を足さねばなりません。

ナポレオンの時代から、いや、そのずっと前から戦場に売春婦(そう Prostitute です。Comfort women なんかじゃありません。)はつきものです。
これは飽くまで歴史の事実であって、今 現在の人権意識とか物差しとは全く無縁のものです。

そして、欧米ではいわゆる従軍慰安婦をSex slavesと表記していますよね。
この事実すら知らない輩(故意に知らせないマスコミ)の世迷言なぞ、一顧だにする必要はありませんな。
 

戦後という狂乱の時代の元凶とは何か

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月23日(木)12時07分11秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  役場の防犯課から次のようなメールが配信されてきた。

引用開始

日時:平成29年11月21日(火)午後3時ごろ
発生場所:○○市××付近
状況:児童たちが歩いていたところ、男から「何年生。学校から家まで何分で着くの。」と声をかけられた。
不審者の特徴:50歳くらい、身長160センチくらい、中肉、黒色のジャンパー、灰色のズボン、黒色の運動靴。

不審な男を見たら、○○警察署(〇〇-0110)に通報してください。

引用終了

今日では、戦前の「ムラ社会」を厭う進歩的な者たちによって「地域社会」だとか、あるいはアメリカナイズされた者たちによって「コミュニティー」などと呼ばれているが、家をミニマムな単位とする地縁や血縁でファッショされた言わば有機的な感情共有体であるところの人間集団(地域集団)は素直に「共同体」と呼んでおくべきである。

その共同体を構成する重要な概念とは何かというと、それは、①信頼、②共助、③協働だろう。

むろん、「ムラ」にはそういう相互扶助的な精神だけでなく厳しい掟があり、その掟(ムラの慣習、習俗、伝統など)に背いた者には「村八分」という厳しい制裁が課される。

しかしそうだからといって、道で大人が子供に話しかける行為を蛇蝎のごとく嫌う今日の風潮には、戦後の悪しきイデオロギーである個人的自由主義の所産としてのゲゼルシャフト(テンニースが規定したところの、各成員が合理的な理念に基づき個人主体の理想社会を目指そうぜという、つまり俺は俺、他人は他人といった無機的な利益調整体)の臭いを嗅いでしまい実に嫌な気分にさせられる。

むろん「人を見たら泥棒と思え」という俗言にも一理あるだろうが、「こんにちは」さえまともに言えない最近の若者・・・まあ、若者に限らず、挨拶もなしに人のブログに土足で入ってきて「お前の観念論にはうんざりだ」などとほざいた阿呆な年寄りも過去に居たが・・・の増長の一端には、このゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの社会類型の変節があると見当をつけてほぼ間違いないのではないか。

人間とは感情の動物である、とはよく言われることだが、同時に人間とは言葉の動物である。

その言葉の動物としての人間の言葉が狂っているということは、その人間そのものが狂っているということに他ならない。

TPOに応じてどういう言葉を選び、どういうふうに人と接するかを子供に教えるのは有機的な感情共有体としての共同体であり、かつてのムラ社会はその良き訓練場であった。

戦後はその共同体を、「個人の個性を奪う悪しき封建体制だ」とか、「子供の自立性や主体性を殺ぐ前近代的な社会だ」といってこれらをすべて解体してきた。

大人と会話できない若者、挨拶すらできない老人が出来(しゅったい)してくるのもむべないと見ておくほかあるまい。
 

民主主義の大洪水

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月23日(木)07時10分35秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  いちのへさん

外れても責任取らないけど、SF市長の拒否権行使はまずないでしょうね。

市長の出自がその根拠。

市長が欲しいのは中華系アメリカ人の票なのですから、それに対して「残念だ」「遺憾である」などと言ったところで詮無いことです。

君ら(大阪市長や安倍首相)だって散々そうしてきたことと照らし合わせてみれば、SF市議会もキミらも同じ穴のムジナじゃないか。

政治も行政も経済もマスコミも知識人でさえも人民主権によって支配されている。

地球上に民意様に逆らえる者など一人も居やしないのさ。

民主主義の大洪水(トクヴィル)だね。
 

サンフランシスコ慰安婦像

 投稿者:いちのへ  投稿日:2017年11月21日(火)21時41分47秒 KD014101145203.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用 編集済
  【米サンフランシスコ市議会が、慰安婦を象徴する女性像の寄贈を民間団体から受け入れる議案を可決した問題で、
  安倍首相は21日、衆院代表質問の答弁で「我が国政府の立場と相いれず、極めて遺憾」と述べ、
  サンフランシスコ市長に、議案の執行への拒否権を行使するよう政府として申し入れたことを明らかにした。】

↑ 注目してます。
 

左翼と親米保守の同質性とは何か

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月21日(火)18時03分13秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  例えばだが、左翼陣営が口癖とする「人権を護れ」という言葉(前提)を解釈学的に推論し、それを日常言語に置き換えてみれば、「人間とは闘争的動物である」という結論が導かれる。

つまり、日頃、友愛だの博愛だのヒューマニズムだのと言っている左翼自身が、「人は皆人に対して狼である」という、人間の本能としての闘争心を認めているわけである。

何故といって、それがロックのにせよホッブズのにせよ、社会契約説に基づく人権とは、好むと好まざると、「万人の万人に対する闘争社会」を生み出す元凶に他ならないからである。

注・ロックは人権保護という名目が果たされる限りにおいて国家の正当性は認められるといい、ホッブズは人権などという危険思想は直ちに放り投げよといったが、いずれにせよ、人権なる意味不明な権利(バーク)こそが、今日の日本社会の混乱、混迷、混濁の中心にあることはもはや疑いようがない。

万人に譲渡不能の永久の権利としての「人権」がアプリオリに備わっているのだ、などという過てる言説によって、その最高にして崇高な人権(自由、生命、幸福追求権)を護るためなら、他人の人権を侵害する権利も人間にはある、などという拡大解釈が出てくる恐れが看過されてしまう。

他方で、「人権を護るためにはどうすればいいか」といった断定的な前提の置き方もこれまた噴飯物であり、こういう前提の置き方をしてしまえば、あとは科学的説明によって直線的に人権礼賛的な結論に行き着く他ない。

人権を批判的に観る意見は最初から排除ないし棄却される。

これらは左翼マスコミや進歩的知識人が良く使う単純な常套手段(世論操作)ではあるが、感情的には非常にわかり易い分、大衆の抱くポピュラーセンチメント(単なる感傷的気分)と調和し易い。

そのまた一方でいわゆる親米保守(この言葉もまた大いなる矛盾に満ちた言葉だが)の置く、「日本は地政学的に厄介なところに位置している」とか「軍事力に脆弱だ」といった前提もまた左翼以上に過てるものであり、そういう前提から出発すれば、「だからアメリカと仲良くしなければならない」などという結論が半ば自動的に出てきてしまう。

左翼と(自称の)保守とでは言い分は正反対だろうが、理論的には無数にある前提からどういう前提を選び、その選んだ前提を解釈学的に総合するのではなく、科学的に説明(分析)するを専らとするという点において、左翼と親米保守とは根は同根でなのである。
 

ラングとパロール ~思想は学問か~

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月21日(火)07時09分52秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用 編集済
  解釈学によって解釈するものが何かというとむろんそれは言葉である。

ちなみに私の言葉がときに矛盾を孕んだものとなるのは、それは下書きをせず、ぶっつけで書いているということもあるが(笑)、矛盾とは対立する諸概念の葛藤や逆説(逆理)を含んだものであり、矛盾に満ちた人生こそ、神ならぬ、煩悩多き人間の輝かしい特権であると見ておくほかない。

一例をあげれば、空気読まないさんも言ってたように、「俺は死など怖くない」と言っている者が、その一方で、ちょっと体調がおかしくなれば、人間ドッグだ、胃カメラだ、エコーだ、心電図だ、と騒ぎ立てる。

この場合は生と死という対立する概念間の葛藤であり、

反戦平和の念仏を唱え、死からの逃避を専らとすれば、却って諸外国の好戦主義や覇権主義を呼び出してしまい、死への接近へと逆転してしまうというのは逆理である。

お話を戻しましょう。

具体的に解釈学(ハーマニューティクス・独)とは言葉をどう解釈する学問なのかというと、それはソシュールが二分したところのラング(科学言語)とパロール(日常言語)でいえば、学者を見本とする専門人らによって単純化された科学言語(専門用語)を、庶民にもわかり易い日常言語(話し言葉)に置き換える知的作業と言っていい。

一例を挙げると、経済学者のよく使う「資本主義は剰余価値を生み出す」という科学言語を日常言語に直してみれば、「俺たち労働者は資本家に搾取されてるんだぜ」というふうになる。

「思想を学問に位置付けるのには違和感がある」という声もあるかもしれないが、私個人の考えとしては、科学者によって体系化された言語を上手く日常言語に変換できる者こそ思想家(シンカー)であるように思う。

まあ、勉強不足という点で言えば、人後に落ちない私だが、親米ホシュなる奇形の保守派らを見本とする自称知識人らの勉強不足は度を越している。
 

国家か個人か

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月20日(月)07時18分16秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  国家か個人か。

この壮大(でもないか)にして究極の二者択一を議論してみたい。

もちろん、対立する概念の総合(平衡と言っても中庸と言っても同じですが)を真骨頂とする保守思想は単純な二者択一を好みませんが、そうかといって価値に序列(優劣)がなければ我々は相対主義の虚無の中で疲労困憊する他ない。

戦前の失敗から、戦後の日本は個人重視に傾き国家が蔑ろとされていますが、われわれの存在根拠はいったい奈辺にあるのか、といった解釈学をしてみよう。

以前、山桜さんが思想というものは体系化された政治学や経済学や法律学とは違う。従って思想を「学問」に括るのには違和感を覚えるというようなことをおっしゃってましたが、他でもない、思想とはこの解釈学をいうものです。

江戸時代に遡って一例を挙げますと、他の何よりも「お家存続」が最優先でした。

極端なことを言えば、家の存続のためなら実子の命すら公儀の名において藩や将軍家に差し出すといったことも少なからず行われていました。

子はまた産めばいいが、お家断絶となれば子の命も親の命もへったくりもない、そこで連綿と受け継がれてきた家の血脈はジ・エンドだ。それじゃあの世でご先祖様に顔向けができないということなのでしょう。

今の価値観からすれば前近代的としか言いようのない蛮行です。

明治となって中央集権国家の誕生と共に藩に代わり国家が家となる。

お家大事から国家大事となり、その「拡張された家制度」は敗戦によるGHQ改革で解体されるまで続く。

戦後は戦前日本の封建的体質を一掃し、近代的に自立した個人を他の何よりも尊重しようという思想が支配的となります。

我々は封建体制で失敗したから、今度はその真逆で行こうじゃないかというのですね。

一例を挙げますと、禁治産制度改め成年後見制度などがそうですが、家よりも本人の人権擁護を第一義とせよという理念に立っている。つまり、判断能力がなくなったとしても人間は人間だ、家の財産を本人の権利を護るために惜しみなく費消せよ、ということです。

お話にまとまりがなくなってきましたから、次回「国家か個人か」というメインテーマについて語ってみたい。
 

かのようにの哲学

 投稿者:桜坂 秀翠  投稿日:2017年11月19日(日)19時48分25秒 p2946182-ipngn19601hodogaya.kanagawa.ocn.ne.jp
返信・引用
  いちのへさん

>いくらナンでも酒のんでの相撲取りの暴力沙汰に『戦後の民主主義』は関係ないとおもいますけどねぇw。


↑アリもアリ、大アリでしょう。

戦後民主主義の根幹には、戦後憲法13条の「個人の尊厳」があり、有り体に言いますとこの条文は、①個人の自由意思は何人にも妨げられない。②個人は何よりも尊重されるべきである、といったことを謳ったものです。

加害者とされる横綱は①を、被害者とされる幕内力士は②を恣意的に解釈し、おのれの弁護論としている。

親方は親方で、やはり戦後民主主義の非暴力主義やら博愛主義やら人権主義やらに完全にやられてますから、自由、生命、幸福追求権、つまり、人権第一主義で弟子に接し、体罰と暴力の区別がつかないマスコミはマスコミで、何かあるとなると「虐待だ」「人権無視だ」と紙面でわめき立てる。

相撲協会は相撲協会で・・・

きりがないから止めときますが、丸山眞男のふりまいた解毒不可の毒素が教育界のみならず角界その他あらゆる組織体の全身を食い潰し、心不全、腎不全、脳不全?を惹き起こしているのです。

>興行の見世物なんだから『国技』なんて勿体付けないで
素直に『お金が欲しい、食うためにやってます』といえば少しは好感も持てるんですけどね。


↑それはその通りなんですが、犬畜生じゃないんだから少しは演技(タテマエ)しろよ、と言いたいですね。

解放された個人主義で欲望剥き出しのホンネでしゃべったりアクションしてばかりいないで、人格者であるかのような真似事ぐらいお前らにもできるだろ、と。
 

Re: 角界にこびりついた戦後民主教育の毒

 投稿者:いちのへ  投稿日:2017年11月19日(日)18時04分27秒 KD014101145203.ppp-bb.dion.ne.jp
返信・引用 編集済
  > No.9060[元記事へ]

桜坂 秀翠さん

日本人で『やりたい』って若者がいないなら、外人をリクルートしなくても
そんな『国技』は滅びてもいいんじゃないの?と前々から思ってましたが、
いくらナンでも酒のんでの相撲取りの暴力沙汰に『戦後の民主主義』は関係ないとおもいますけどねぇw。
相撲を見て卑しいなぁ、と思うのは、国技を標榜しながらも、とにかく

カネ・カネ・カネ のカネまみれでしょ。
(土建屋と同じじゃん)

興行の見世物なんだから『国技』なんて勿体付けないで
素直に『お金が欲しい、食うためにやってます』といえば少しは好感も持てるんですけどね。
すこしは、ラッシャー木村の真摯誠実な生き方でも学べ、といいたいですね。
 

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