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はじめまして。坂井修一です。
青磁社刊の拙著『世界と同じ色の憂愁』で、吉川宏志君の歌について、一昨夜、本人から反論された(同席した穂村君からもおもしろいコメントをいただいた)ので一言。
会社より逃げるごとくに帰りたるひのくれ水のほとりの椿 『海雨』
「しかし、読後に大きな疑問が残る歌ではある。なぜ作者は『逃げるごとくに帰』る必要があるのか。(中略)ここには、個人としての生き方と会社や世界のありようとの齟齬がある。この齟齬と、さきに述べた価値観の転換のむずかしさには、きわめて近いものがあるように思う」
さて、吉川君は、「なぜ作者は『逃げるごとくに帰』る必要があるのか」という問いが、私の社会常識の至らなさによるものと受けとめたようです。もちろん、「逃げるごとくに帰」る場面は自然に想像できるものですが、ここでは、そうした社会対個の関係を別の角度から問い直すことで、既成と異なる価値観を表現していけるのではないか、ということを言いたかったのです。文章の舌足らずはもちろん責められるべきですが、この点、誤解なきよう。
この本の中で、吉川君について書いた文章を最後にもってきたのは、私の中の特別な思いからくるものです。特に、以下の箇所については、反論もあるでしょうが、私として危惧と期待と両方を最大限にこめて、である点、ご理解いただきたく。
「吉川宏志のいい歌は、多く身近な自然や景物を題材にとったものである。一読して自己主張や感情を表に示さないようでいて、奥のほうに強い批判精神を感じさせるものが多い。もちろんそこには高い技法があるが、吉川のいい歌では、技法が作品の自己完結をもらたすのではなく、もっと開かれたものへと読者を誘う。
ここに歌われている思想のようなものについて、私自身は批判がないでもない。第一に作者の歌からは、行動の主体性が見えにくい。第二に、個人の中の価値観の衝突が作品の場に現れないために、作品の振幅が狭くなっている場合がある。そして第三に、作者自身の理想とするものが何なのか、歌からはじゅうぶんに見えてこない。
私たちの世界がこれからどういうふうになっていくのか。この大きな問題に対して個々の歌人は、ものごとを冷徹に観察するとともに、自らの身の最良の処し方を考えることが必要であろう。吉川はそうした観察や処世において間違いのない歌人に見えるが、そう見えることがいつも幸福かどうかはわからない。文芸においては、しばしば結論でなく試行錯誤のほうに深い意味がある。そういうことを吉川はどれぐらい理解しているだろうか」
坂井修一
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